2005年04月06日
メモ52「追記」
前のメモを読み返しながら考えたことを追記。
「偏見」の問題点は、実際受けられるべき「評価」と現在のそれに大きな差が起きている状況にある。 たとえば、赤点スレスレだった学生が奮起して、次の試験ではそこそこの平均点をとったとする。
この時に賞められるのが正当な評価だが、カンニングの疑いをかけられたりからかわれる場合もある。これが「偏見」というものだが、実際にカンニングしているケースもあったりするから、よほど親しい人間でもない限り疑いもせず好意的に考えるのは結構難しい。
そこの時点で「偏見だ、けしからん。疑った奴は謝れ!」と義憤にかられる人も居るけれど、その横槍のせいで当事者の再検証に余計なノイズを入れてしまう場合もある。否定的な見解が出そうになると「偏見」と指摘される事を恐れて、実際の評価にズレが生じるからだ。
この自分なりの評価を素直に出せない状態が新たな不満を作り出し、別の偏見となる場合もある。ある種のタブーが取り払われた後、水に落ちた犬を叩くような意見が噴出するのを私達は知っているはずだ。
だから、偏見を取り払うには「偏見は悪でいけないことだ」の一点張りではなく、現在の評価に大きくズレが生じていると自然に理解させる必要がある。前述の学生なら、成績のレベルを維持し続けるかさらに向上させればいい。
日本の電化製品にしても、安くて劣悪と諸外国で呼ばれていたが、長年の努力でそんな風に思う者は居なくなった。それは差別や偏見と戦って勝ったからではない。評価とは誰かに強制させるようなものではなく、自然と広まっていくものだからだ。
このあたり、「評価」を「歴史観」と言い換えれば、歴史認識の問題にも応用できるかもしれない。
つまり、「偏見」とは脳内キャッシュの内容が古くなって現状との差がある状態を指す。それ自体は悪でも何でもない。また、再検証してもあまり評価が変化しない場合もあり、それは個人の論理体系による判断なのだからこれも「悪」とは言えない。
これらは、再検証や再定義自体を拒んだり、レッテルを貼り付けたまま思考停止する行為と分けて考える必要がある。必要なのは出来るだけ客観的な分析であって、正確な区別をすることなく「差別・偏見」というキーワードを使ってしまうのは、ゲリラの居る都市を無差別爆撃するのと大差ない。
「ネット右翼」という類の単語がレッテル貼りの意図をもって安易に使われた結果、問題に無関心や中立を保っていた層まで敵にまわしてしまった人達が居る。しかも、「敵」は一向に減る様子が無く増え続けているのだから、彼らにとってはゾンビの群れの中に孤立したような心境なのかもしれない。そう、「ドーンオブザデッド」のように……。
前にアドバイスめいた事を書いたが、戦い方はいくらでもあったのに、と思う。
何かを非難することで満足するのではなく、どうすれば改善していくのか? 怒りの声をあげる前に一呼吸の余裕が必要なのかもしれません。
他山の石としたいものです。
この時に賞められるのが正当な評価だが、カンニングの疑いをかけられたりからかわれる場合もある。これが「偏見」というものだが、実際にカンニングしているケースもあったりするから、よほど親しい人間でもない限り疑いもせず好意的に考えるのは結構難しい。
そこの時点で「偏見だ、けしからん。疑った奴は謝れ!」と義憤にかられる人も居るけれど、その横槍のせいで当事者の再検証に余計なノイズを入れてしまう場合もある。否定的な見解が出そうになると「偏見」と指摘される事を恐れて、実際の評価にズレが生じるからだ。
この自分なりの評価を素直に出せない状態が新たな不満を作り出し、別の偏見となる場合もある。ある種のタブーが取り払われた後、水に落ちた犬を叩くような意見が噴出するのを私達は知っているはずだ。
だから、偏見を取り払うには「偏見は悪でいけないことだ」の一点張りではなく、現在の評価に大きくズレが生じていると自然に理解させる必要がある。前述の学生なら、成績のレベルを維持し続けるかさらに向上させればいい。
日本の電化製品にしても、安くて劣悪と諸外国で呼ばれていたが、長年の努力でそんな風に思う者は居なくなった。それは差別や偏見と戦って勝ったからではない。評価とは誰かに強制させるようなものではなく、自然と広まっていくものだからだ。
このあたり、「評価」を「歴史観」と言い換えれば、歴史認識の問題にも応用できるかもしれない。
つまり、「偏見」とは脳内キャッシュの内容が古くなって現状との差がある状態を指す。それ自体は悪でも何でもない。また、再検証してもあまり評価が変化しない場合もあり、それは個人の論理体系による判断なのだからこれも「悪」とは言えない。
これらは、再検証や再定義自体を拒んだり、レッテルを貼り付けたまま思考停止する行為と分けて考える必要がある。必要なのは出来るだけ客観的な分析であって、正確な区別をすることなく「差別・偏見」というキーワードを使ってしまうのは、ゲリラの居る都市を無差別爆撃するのと大差ない。
「ネット右翼」という類の単語がレッテル貼りの意図をもって安易に使われた結果、問題に無関心や中立を保っていた層まで敵にまわしてしまった人達が居る。しかも、「敵」は一向に減る様子が無く増え続けているのだから、彼らにとってはゾンビの群れの中に孤立したような心境なのかもしれない。そう、「ドーンオブザデッド」のように……。
前にアドバイスめいた事を書いたが、戦い方はいくらでもあったのに、と思う。
何かを非難することで満足するのではなく、どうすれば改善していくのか? 怒りの声をあげる前に一呼吸の余裕が必要なのかもしれません。
他山の石としたいものです。
102:地方の医療問題
95:中国人との関わり方
メモ81「ジャーナリストの傲慢さ」
メモ79「マスコミ報道にある負の連鎖」
メモ73「議論と今後のいろいろについて」
メモ72「煙さんと南京と議論について」
95:中国人との関わり方
メモ81「ジャーナリストの傲慢さ」
メモ79「マスコミ報道にある負の連鎖」
メモ73「議論と今後のいろいろについて」
メモ72「煙さんと南京と議論について」
Posted by noraneko at 04:56│Comments(1)
│一般/議論
この記事へのコメント
あのリンク先は比喩に使うには刺激が強すぎたかな? コトダマイストにとって、ケガレというものはあんな感じなんだろうとは思うのですが。
ちなみに、僕自身もまたコトダマイストですから、ああいう感情的な拒絶反応が解るつもりでいます。だからこそ、そういう感覚が無差別に他者に向けられた時にまずいと思うのです。
難しく考えてばかりなのもなんですが、たまには(?)こんな風に確認するのも面白いんじゃないでしょうか。
ちなみに、僕自身もまたコトダマイストですから、ああいう感情的な拒絶反応が解るつもりでいます。だからこそ、そういう感覚が無差別に他者に向けられた時にまずいと思うのです。
難しく考えてばかりなのもなんですが、たまには(?)こんな風に確認するのも面白いんじゃないでしょうか。
Posted by 野良猫 at 2005年04月06日 05:04
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