2006年07月12日
メモ72「煙さんと南京と議論について」
一応、メモ66の続き。
煙さんの記事への感想いろいろ。
煙さんの記事への感想いろいろ。
■ 議論と青狐メソッドについて
持論を表明しないとデマゴギーを批判できないのか?について
さて、メモ67でも少し触れている事ですが、単発の指摘だけならともかく「南京」という話題に深入りして議論するのなら、どういう考え方かを述べるべきでしょう。
答える必要がないという方には、逆に「別に答えたって支障はないでしょう?」と問いたい。
特に「青狐グループ」の方々はちゃんと持論があるはずなのだから、呼びかけを否定する材料は乏しいんじゃないだろうか。答えたくないのならばそう説明すれば済む話に過ぎない。
この記事に出てくる「青狐メソッド」というのは、こちらで解説されている。
これによると、議論には突っ込む側と突っ込まれる側という理不尽な構造があって、持論を否定され続けてきた悔しさを「否定派」に理解させるために「突っ込み側」に立ち続ける、というやり方のようだ。「歴史修正主義者」は「肯定派」がいい加減な事を言っているような状況へと、卑怯にも追い込むからだ……、というように解釈した。
……すみません、こんな事を本気で主張してるんでしょうか? 議論で持論を否定されるのは当たり前だし、それに傷ついたりするのもごくありふれた出来事に過ぎない。仮に否定されたとしても、より一層の説得力を持つ内容へと発展させていけばいい。また、持論を否定されたとしても、その人の全存在を拒絶された訳でもないから、気にしすぎる必要などもない。
もしも「青狐メソッド」が成り立つとしたら……、まずは「自分の考えが絶対に正しい(はず)」という仮想論理の上に「正しいはずの私の考えを愚かな者達が否定する。こんな状況は間違っている」という感情が前提にあるんでしょう。
おそらく「青狐メソッド」に関する煙さんの分析自体は合っているのでしょう。
ですが、これって平たく言えば「傷つけられたから仕返しする。揚げ足をとられたから同じやり方でやってやる」という事なんじゃないですか? それを使ってみたところで互いの知識が深まるとも思えない。
こちらとしては「術中にはめる」というような意図はありません。具体的な考えを聞かせてほしかっただけです。それがこうまで意識が違うとなると、メモ71で書いてみた比喩は結構当たっているのかもしれないなあ。
>南京事件否定派というのも、田中正明から東中野修道まで確信犯的デマゴギーの歴史
>なのだから、これを批判するのに積極的肯定派である必要はない。「反デマゴギー」
>という一点で十分である。
やっぱり「異教徒を改宗させてくれようぞ」なんだろうか(汗)。少なくとも、僕の知る範囲では「否定派」に限らず疑問を感じたりしてる人達のなかに、ここまで強い表現を使う人は居ないからです。
肯定派は絶対的に正しい考え方であり、否定派のことごとくはやがて私達になびいてくるであろう……くらいの確信でもないと、なかなかここまでは言えないでしょうね(^_^;)。
■ 議論と説得の違いとか
「シロ」「シロに近い灰色」「クロに近い灰色」「クロ」について
なるべく持論のベースになっているものを説明しておいた方がいい、という点については同感です。ブログがあるなら、一から説明しなくてもいいから「この本を参考にしている」くらいは書いておいた方がいいでしょう。
僕の場合は「支那事変作戦日誌(井本熊男)」と「南京大虐殺はこうして作られた(富士信夫)」かな。
後者には裁判の弁論が収録されていて、当時の陸軍法務官が十件くらいしか違法行為の処理をしなかった事と、南京陥落直後に日本領事館に勤務していた人が、虐殺を否定する証言を残しているからです。他にもたくさんそういう証言が載っています。
また、安全委員会の苦情は松井大将の中支那方面軍ではなく、日本領事館経由で日本政府に届けられている。高級将校の日記はそうした伝聞で知った話を憂慮したもの、と解釈しています。
ですから、大都市が戦場になったケースで外国軍が起こす程度の不祥事はあったが、少なくとも「笠原説」のようなものは無かったと考えているのです。
僕はあまりネット上の史料を信用していないので、何か参考になりそうな本があったら教えてください。
「ありえない」派、「ないと思う」派、「あったかもしれない」派について
この記事とコメント欄を読む限り、そちらの方々が望んでいるのは「議論」というよりは「説得」なんだろうなあと再認識しました。僕の考えてる議論というのは、お互いに持論やデータを出し合って何が正しいのかを自問自答していくものなんです。必ずしもその場で結論を出す必要もないし、新しい知識が得られれば勝ち負けなんてどうでもいい。もしも、持論に相手が同調してくれなかったとしても、それはそれで構わないとも思っています。
前にも書いたことがあるんですが、人間は他人からの説得で意見を変える事なんてそうそうありません。変わるかどうかはその人自身が望む時であって、他人がどうこう出来るものでもない。それを出来ると考えてしまう方が傲慢だと言えないでしょうか?
ですから、そちらの考えているような「目標」はありません。あえて言うなら「分析」がメインであって「共感」ではない。つまり、自己完結してしまっている側と、意見への同調を求める側が議論をしようとしている事になる。
こういう違いを自覚していないと「なぜ私達の正しさを理解してくれないのか」「なぜ彼らはデータも提示せずに主張のごり押しをしてくるのか」という事になるのでしょう。
こういうのは片方が気づいてもダメなもので、双方が一定の信頼感と自省をしない限りなかなか難しいだろうと思います。それだけ「政治ネタ」というものが面倒だという事でもあるのでしょう。
持論を表明しないとデマゴギーを批判できないのか?について
さて、メモ67でも少し触れている事ですが、単発の指摘だけならともかく「南京」という話題に深入りして議論するのなら、どういう考え方かを述べるべきでしょう。
答える必要がないという方には、逆に「別に答えたって支障はないでしょう?」と問いたい。
特に「青狐グループ」の方々はちゃんと持論があるはずなのだから、呼びかけを否定する材料は乏しいんじゃないだろうか。答えたくないのならばそう説明すれば済む話に過ぎない。
この記事に出てくる「青狐メソッド」というのは、こちらで解説されている。
これによると、議論には突っ込む側と突っ込まれる側という理不尽な構造があって、持論を否定され続けてきた悔しさを「否定派」に理解させるために「突っ込み側」に立ち続ける、というやり方のようだ。「歴史修正主義者」は「肯定派」がいい加減な事を言っているような状況へと、卑怯にも追い込むからだ……、というように解釈した。
……すみません、こんな事を本気で主張してるんでしょうか? 議論で持論を否定されるのは当たり前だし、それに傷ついたりするのもごくありふれた出来事に過ぎない。仮に否定されたとしても、より一層の説得力を持つ内容へと発展させていけばいい。また、持論を否定されたとしても、その人の全存在を拒絶された訳でもないから、気にしすぎる必要などもない。
もしも「青狐メソッド」が成り立つとしたら……、まずは「自分の考えが絶対に正しい(はず)」という仮想論理の上に「正しいはずの私の考えを愚かな者達が否定する。こんな状況は間違っている」という感情が前提にあるんでしょう。
おそらく「青狐メソッド」に関する煙さんの分析自体は合っているのでしょう。
ですが、これって平たく言えば「傷つけられたから仕返しする。揚げ足をとられたから同じやり方でやってやる」という事なんじゃないですか? それを使ってみたところで互いの知識が深まるとも思えない。
こちらとしては「術中にはめる」というような意図はありません。具体的な考えを聞かせてほしかっただけです。それがこうまで意識が違うとなると、メモ71で書いてみた比喩は結構当たっているのかもしれないなあ。
>南京事件否定派というのも、田中正明から東中野修道まで確信犯的デマゴギーの歴史
>なのだから、これを批判するのに積極的肯定派である必要はない。「反デマゴギー」
>という一点で十分である。
やっぱり「異教徒を改宗させてくれようぞ」なんだろうか(汗)。少なくとも、僕の知る範囲では「否定派」に限らず疑問を感じたりしてる人達のなかに、ここまで強い表現を使う人は居ないからです。
肯定派は絶対的に正しい考え方であり、否定派のことごとくはやがて私達になびいてくるであろう……くらいの確信でもないと、なかなかここまでは言えないでしょうね(^_^;)。
■ 議論と説得の違いとか
「シロ」「シロに近い灰色」「クロに近い灰色」「クロ」について
なるべく持論のベースになっているものを説明しておいた方がいい、という点については同感です。ブログがあるなら、一から説明しなくてもいいから「この本を参考にしている」くらいは書いておいた方がいいでしょう。
僕の場合は「支那事変作戦日誌(井本熊男)」と「南京大虐殺はこうして作られた(富士信夫)」かな。
後者には裁判の弁論が収録されていて、当時の陸軍法務官が十件くらいしか違法行為の処理をしなかった事と、南京陥落直後に日本領事館に勤務していた人が、虐殺を否定する証言を残しているからです。他にもたくさんそういう証言が載っています。
また、安全委員会の苦情は松井大将の中支那方面軍ではなく、日本領事館経由で日本政府に届けられている。高級将校の日記はそうした伝聞で知った話を憂慮したもの、と解釈しています。
ですから、大都市が戦場になったケースで外国軍が起こす程度の不祥事はあったが、少なくとも「笠原説」のようなものは無かったと考えているのです。
僕はあまりネット上の史料を信用していないので、何か参考になりそうな本があったら教えてください。
「ありえない」派、「ないと思う」派、「あったかもしれない」派について
この記事とコメント欄を読む限り、そちらの方々が望んでいるのは「議論」というよりは「説得」なんだろうなあと再認識しました。僕の考えてる議論というのは、お互いに持論やデータを出し合って何が正しいのかを自問自答していくものなんです。必ずしもその場で結論を出す必要もないし、新しい知識が得られれば勝ち負けなんてどうでもいい。もしも、持論に相手が同調してくれなかったとしても、それはそれで構わないとも思っています。
前にも書いたことがあるんですが、人間は他人からの説得で意見を変える事なんてそうそうありません。変わるかどうかはその人自身が望む時であって、他人がどうこう出来るものでもない。それを出来ると考えてしまう方が傲慢だと言えないでしょうか?
ですから、そちらの考えているような「目標」はありません。あえて言うなら「分析」がメインであって「共感」ではない。つまり、自己完結してしまっている側と、意見への同調を求める側が議論をしようとしている事になる。
こういう違いを自覚していないと「なぜ私達の正しさを理解してくれないのか」「なぜ彼らはデータも提示せずに主張のごり押しをしてくるのか」という事になるのでしょう。
こういうのは片方が気づいてもダメなもので、双方が一定の信頼感と自省をしない限りなかなか難しいだろうと思います。それだけ「政治ネタ」というものが面倒だという事でもあるのでしょう。
102:地方の医療問題
95:中国人との関わり方
メモ81「ジャーナリストの傲慢さ」
メモ79「マスコミ報道にある負の連鎖」
メモ73「議論と今後のいろいろについて」
メモ71「南京肯定派と否定派について」
95:中国人との関わり方
メモ81「ジャーナリストの傲慢さ」
メモ79「マスコミ報道にある負の連鎖」
メモ73「議論と今後のいろいろについて」
メモ71「南京肯定派と否定派について」
Posted by noraneko at 07:39│Comments(0)
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