メモその9「差別とかいろいろ」

noraneko

2004年08月27日 04:27

こちらこちらの記事を拝見中。
 それについて、雑感をいくつか。
「死ぬのはやつらだ」さんは、たぶん「脱ゴー宣」を書いた上杉聡に近いタイプの人なんだろう。ライターでも勝谷誠彦や日垣隆のように、日記を書き始めたら著書とは違って荒れた感じになっていた。同じ意見の人だけが喜ぶ文章というのは、同人誌ではそう珍しくはない(前提知識が近い人を対象にしている点も似ている)。
 昔、とあるSLGの話題で、カップリング(誰と誰が恋人になるか)について激しい論争になってるのを読んで以来、人には譲れない話題、譲ったら自分の世界観が崩れてしまうような危機感を抱くような話題があることを知った。
 どんな狭いジャンルでも固定ファンが居る限り、同人誌の発行は続けられる。同意を抱いてくれる人が居て、自分の思いのたけを発散出来るのならば、それはそれでいいのかもしれない。blogも似たような部分がある。
 
 そういえば、何のSLGだったか説明するのを忘れていた。
 ここを読んでる層に知ってる人は居ないだろうが、「聖戦の系譜」と聞けば解る人は解るでしょう(汗)。
 自分はフィー×セリス派です(謎)。


 さて、自分と違うものを意識して警戒するのは、動物の防衛本能として自然なものです。それまで「差別」としてしまうのは、本当に正しいことなんだろうか……? 小さい頃は基地のある街に住んでいましたが、子供にとっては、白人・黒人に関係なく「怖い」存在だったのを覚えています。大人達もどこか及び腰だった。それは戦争に負けたという意識かもしれないし、言葉が通じない事によるトラブルを避けたかったのかもしれない。
 生徒を保護する立場としては、少しでも生徒を危険から遠ざけようという配慮は解らないこともない。
「差別者」と言われようとも、守れなくては話にならない。
 そんな風に考える今、同じく中学時代に出会った一人の数学教師を思い出す。
 彼は最初の授業で「家がお店をやっている生徒は手を挙げて」と言われたので挙手した。実際は他にも数名いたはずなのだが、その時は僕一人だった。その教師は僕の顔を見ながらこう言った。

「彼の家はペコペコと嬉しくもないのに頭を下げて、お金を貰って生活しています。見せかけだけの嘘っぱちだと私は思います。それに比べて数字は嘘をつきません……」と講釈を始めたのだった。
 思えば、あの時に無条件に大人への信頼や、無防備に接する事を避けるようになったのかもしれない。少なくとも、誰かを「悪」として自らの純粋性や正当性をアピールするやり方に、疑問を覚えたのは確かだ。

 未だに彼が左翼だったのか、あるいは小売業の類に恨みがあったのかは解らない。だが、もう一度会う機会があれば、どうしてあんな事を話したのか問いただしてみたい。
 あの時に今の半分程度でも理論武装していれば、黙ったままではいなかったろうになあ……(苦笑)。
 中学時代には他にも「反面教師」と出会うのだが、それはまたそのうちに。
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