■ 議論の流れについて
時間のある人は、よかったら上記記事のコメント欄を読んでみてほしい。コメント数は長いものの、似たような内容の繰り返しなのでそれほど面倒ではないはずだ。
議論になっている主題は「この記事は著作権を侵害している盗作である」という訴えと「南京事件の定義と真偽について」となっている。
前者についてはあまり深刻な問題でもない。現在の二次創作やパロディという題材がどのように扱われているか知っている人間なら、心配するようなことは何も無いと解っているからだ。
今回のようなケースをもう少し厳密に判定するならば、完全にアイコンを自作している場合は全く問題なし。元の素材があって加工している場合でも、それを商利用していなければ大丈夫。また、同人誌などの場合でも表紙にそのまま使うようなケースでなければ問題なし(同人誌によっては、対談集に類似のアイコンを使っている場合があるが著作権側が問題としたケースは皆無)。
つまり、基本的には著作権側と二次創作をする側との間には一定の信頼関係がある。
著作権側はファンとしての活動として認めてくれている。それとは逆に、作品のイメージが著しく損なわれるようなケース(ポケモンのやおい同人誌を任天堂が訴えた事件など)のように、「これ以上は認められない」という一罰百戒の意味をこめられた行為は、ファンの側も反論することなく受け入れている。
法律的には「グレーゾーン」という事になってはいるが、作品を愛する者達の「共同体」が築き上げてきた「慣習」は現在も続いているのだ。それを無視する事は誰であろうとも簡単にはできない。
だから、この議論については既に決着がついている。
何人かの説明が為された後の現状では「納得したくない」という一部の人間が、まとまらない気持ちを綴っているに過ぎない。
もしも、他人からの説明で納得がいかない場合は、同人に詳しい友人や出版社、あるいは漫画家などにメールなどで質問してみるといいだろう。
他人から与えられた「情報」に納得できない時は、自分で「知識」を獲得すればいいのだから。
■ 議論の妥当性について
そして、もう一つの題材が「南京」となる。これには多少なりとも議論に関わった身ではあるものの、あまり書く必要は無かったかもしれないと反省している。
元々の記事は二次創作のパロディなのだから、作品としての評価や政治ネタに使うことについての妥当性に話を絞るべきだった。
たとえば……、
「僕はハルヒという作品が大好きです。このネタもとても面白かったです。ですが、政治色を帯びた話題をさせたりすると、作品を知らない人に右翼的なイメージを持たせたりしてマイナスになるのではないでしょうか。
なにか勘違いした人達が、ハルヒの作者さんを攻撃したりすると困るので、こういう作品作りはいかがなものかと思います」
……というような批判ならどうだろうか。あちらのコメント欄で書いた内容をさらに柔らかくしてみたが、これなら反発も少ないだろうし記事の話題からも外れてはいない。
どうしても「南京」に話を絞りたい場合は、こんな書き方もある。
「二次創作そのものは構わないと思います。しかし『南京大虐殺』は絶対にあったと私は信じているのです。面白いのは確かですが、これでは『否定派』が自説を普及させるために元作品を利用している事にはならないでしょうか?
私は笠原十九司教授の『南京事件』をベースに信じています。作品としての妥当性とブログ主さんが南京問題についてどうお考えか教えていただけると幸いです」
これだと「南京」に比重があるものの、作品論の話と両立している。
いずれにしても、自分が何を信じているかという「ポジション」の説明は不可欠だし、議論を求める相手に何を望んでいるのかを、具体的に絞り込まなくてはならない。
僕は「南京」の話題に限らず、こうした条件を満たしていない内容にあえて返事を書く必要はないと考えている。なぜなら、そういう文章を書く人間というのは自分が相手に何を伝えたいのかまとまっていないか、ちゃんと意見交換しようという気が無いからだ。
そこを割り切ったうえで、あえてフリートークを楽しむのなら話は別だが、身のある会話を望む人間がわざわざする必要などはない。
■「青狐グループ」という人達について
僕が彼らを「青狐グループ」と呼ぶのは、彼らがほぼ固定メンバーとして「南京」の話題を語るブログに現れているからだ(何名かは大学の同級生らしい)。
青狐さんのブログには、そうした訪問記録がたくさん残されている。一般人のブログに押しかけてしまったことで、アクセス禁止処置を受けたケースも過去にあった。
今回のケースも「著作権」「南京」という話題が散漫と繰り返されるだけで、過去によく見たパターンにはまっているのを感じた。
そこで「青狐さんを含めた肯定派の方々は、虐殺をあると信じるならどんな学説を信じているかを、今月中か今週いっぱいまでに回答してもらいたい」と試しに問いかける事にした。
しかし、今までのところ「自分は笠原教授の説をベースにしています」というような回答は一つも無いようだ(そんな問いかけは無意味だ、というトラックバック記事ならあるようだが)。もし見落としているのなら、教えていただけると助かります。
この件に関しては
孤高さんの指摘が正しいのかもしれない。
これを普通に読んでしまうと「自分は誰かを否定する立場であって否定される側ではない」という、ひどく自分本位な考え方に見えてしまう。だから、そこからもう少し考えを進めてみることにする。
たとえば……、
「我々の持論は絶対的に正しいものである(はずだ)。つまり『否定派』は間違った意見なのである。そうである以上、詳しく持論を説明する必要など無い。
なぜなら、我々の持論は最初から勝っているからだ。だから、我々が語った瞬間に『否定派』は敗北している(はず)なのだ」
……こんな感じかな(実際にそんな主旨のコメントを書いた人も居たようだが)。
これならきちんと回答する必要など無い、と自己正当化も出来るのかもしれない。
自分はそういう論法を使いたくはないですけれどね。
とりあえず、それが客観的に正しいと認められるかは説明次第のはずだが、主観=客観という形でその過程がすっ飛ばされている。以前に巡回していた元左翼と名乗る方のブログでは、こうした考え方を「仮想論理」と呼んでいた。
いわゆるサヨク方面の方は、そんな理論武装をしているケースが多いようだ。
そして、それを相手が共有しているという前提で話を進めるので、非常に話がこじれやすい。
ともあれ、青狐さんは自分から始めた議論を途中で放棄してしまうらしい。
>野良猫さんが横レスしたから、私は今日で引き上げます(笑)。
>Posted by 青狐 at 2006年05月31日 00:00
>というわけで、野良猫さんが再登場したので、ここに投稿するのはこれが最後になる
>と思います
>Posted by 青狐 at 2006年06月29日 03:49
……少なくとも二回は「宣言」をしているみたいですね。
他のところでも放置しているようですし、まずはそれぞれの場所で決着をつけてほしいものです。
出来れば「南京」に関するデータベースを整える方を優先させて、本題とは異なる場所で強引に南京論議を求めるのは止めていただきたいと願います。
■ その他
Apemanさんがメモ64のコメント欄に何か書かれているようですが、今回の件とは直接関係ないようなので次回以降にまわします。また、その際は文章が非常に読みにくいために一度こちらで「翻訳」したものを記事にして「こういう意図でいいのか?」と確認する予定です(誤読や定義のズレを防止するため)。